2012年9月13日木曜日

素人の社会活動 現実を対象化する思考=事実認識

☆しかし、社会を統合する為には、統合観念が不可欠である。それは、誰もが認める事のできる事実認識の体系でなければならない。とりわけ歴史認識(人類と社会の原基構造の解明)と脱出方向の提示が最も重要な思考課題となる。

2012年9月12日水曜日

権威者としての学者には社会的責任があるはずです。

私は、職業として学者を名乗っている者には、二つの社会的責任があると思います。
1つは、権威者として、世論を誘導できる立場にあることに由来する責任です。
 例えば、バブル経済の頃、日本は世界一の経済大国になり、21世紀は大繁栄の時代を迎えるなどという無責任な論調が、経済界に流されました。
 このとき、イデオローグとなったのは、学者達です。
 本当なら、バブル経済を擁護、黙認した学者達は、現在の不況の責任をとって、彼らは総辞職すべきでしょう。

2012年9月11日火曜日

なぜ学問は退廃するか

以下は森岡正博「現代日本の哲学をつまらなくしている三つの症候群について」からの引用によっています。)

■■書店で出会う「哲学」のつまらなさ
 現代この場所で私たちが直面している問題を、根本にかえって、深く考えるのが、哲学である。ところが、大学や書店で出会う「哲学」は、決してそのようなものではない。現代日本では、哲学は、非常につまらないものへと縮減しているのである。
 哲学者に向かって、あなたの哲学は何ですかと決して質問してはならない、というジョークがあるが、この話が意味するものをここでもう一度考え直してみよう。

 哲学的問題に自分の頭と自分のことばで取り組み、「哲学」する人、これが本来の哲学者である。哲学者は、自分の抱えている問題あるいは現実に直面し対決する。
 これに対して、過去の作品としての「哲学」あるいは哲学(学)者について研究する学者のことを、哲学学者と呼びたい。哲学学者は、文献に直面し対決する。

2012年9月10日月曜日

人権思想についての疑問 その2

人権思想の根拠となるものに自然権があります。簡潔にいうと、「人は自然状態において、他人にゆずり渡すことのできない固有の権利をもっている。それは、人間がただ人間であることにもとづいて当然に身に付けているものである。」という思想です。

かつては人の自然権は、他の絶対的な価値のあるものにもとづいて、価値を与えられていました。例えば、イギリスのマグナ・カルタでは「歴史・慣習」、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言では「神」により与えられるものとされていました。いづれにしても人間を超えた超越存在が想定され、それらの絶対的な価値にもとづいて保障されたものだったのです。人の超越存在が「神」になった思想史的な過程の考察とその問題性については、『実現論』の中で、またこのるいネットに参加されている方の投稿でも指摘がされています。この点についての議論もかなり重要かと思われますが、一旦保留しておきます。

2012年9月9日日曜日

人権思想についての疑問 その1

人権思想についてはいくつかの疑問点があります。

小学生や中学生の頃から、学校では「人権とは、人類に普遍で不可侵なものである」と教えられ、何の疑いもなく信じこまされてきました。

しかし、例えば、手元にある岩波文庫の『人権宣言集』を開いて、フランス人権宣言(人および市民の権利宣言)の章の解説を読んでみると、山本桂一氏はフランス人権宣言においての3つの傾向を挙げています。要約すると以下のようになります。

①形而上学的傾向・・・時間的空間的に限定された諸原理を明言するものではなく、人間社会に共通の普遍的原理を承認するものである。人の本性から派生する自然権として、人は人であるかぎりその帰属を受けるとし、この権利の確認のために前文で「至高の存在」を招請している。

②個人主義的傾向・・・すべて政府および社会は、個人およびその幸福を究極の目的とし、自然権の保全を政治団体の目的としてかかげている。

③市民階級中心の傾向・・・憲法制定議会は、第三身分の代議士が支配するものであったからその採択した宣言が必然的に市民階級の排他的尊重の上に立つことにはふしぎはなく、その具体的発現は、市民の平等の尊重と市民の所有権の保障の2点に見出される。市民階級の生計を確保するとともに、市民の資本家活動を促進して、資本主義経済発展および市民階級興隆の途を開いた。

2012年9月8日土曜日

教育者は要らない

>教える事を職業とする人にはそれなりの熟練した技がありそれは、それ専門にやっていない人には難しい
>冷静に社会を客観視し学問の本質の立場から意見が言える人間(教授)というのはやはり世にとってなくてはならない存在なのである。

問題は、教授に限らず現代の教育者の大半が、教えるに足る何かを持ち得ているのかと言うことでしょう。

>‘数’の中に潜むある‘美’を求めているんだ。それは図形の美しさや数列の美しさ、それらは自然界の美ともいえる。
>理屈はいい。それよりも本当に良い美しいものを創りなさい。

この様なことは本当に正しいと言えるのでしょうか。私は上記のような発言は、「美」という抽象且つ専門的・特権的価値観でもって論理的闘争に蓋をするものだと思います。

2012年9月7日金曜日

近代思想=理念的思考の危険性

理念、理想とは頭の中だけで「こうあるべき」という観念を結晶化させたものです。
 そしてこのようなものが登場したもう一つの理由は、社会を統合する上で何がしかの観念(人々にとって都合よく見える=プラスに見える観念)を必要としたことにあります。

 さて、では我々はどうすれば良いのでしょう。

2012年9月6日木曜日

社会と学校教育(問題と限界)

>それは、先生が社会人で無いからである。
>そのような先生に教わったところで社会の実際の仕組みなどわかることもできない
(現代秀作掲示板http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=3282『社会人でない先生』より)

私も、“教師”という「教える事専門」の職業には疑問があります。
そして、「教わる事専門」の場である“学校”にも、やはり同様に疑問を持っています。
例えば、学校という特殊空間に、社会人教師が入ったとしても、社会(生産現場)に接していない子供達に、その教師に対する尊敬と一体感(仲間意識)は、芽生えるでしょうか?
尊敬も一体感も感じられないその社会人の言葉や行動は、果たしてその場で有効に機能し子供達に吸収されるのでしょうか?
マスコミや評論家は「大人(教師や親etc)自身がしっかりすること」「大人(教師や親etc)は威厳を持つこと」「子供には目上を敬う気持ちを持たせること」など一見もっともらしいことを云いますが、本当にそれは可能なのでしょうか?

2012年9月5日水曜日

個人主義の成立基盤

確かにこのような状態、つまり集団から疎外され万人が敵である状態であれば、個人主義は一定リアリティを持ち得ただろうし、個人を原点に置かざるを得ない事情も理解できる。

しかし問題は,その個人主義が意味を有する現実条件が、現在果していかほど存在するかである。

2012年9月4日火曜日

資本主義と権利

前回の投稿(http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=3233「男女同権とは何の権利を主張しているのか」)に引き続き「権利」について、若干の私の考えを述べます。

日本において、「権利」が喧しく言われ出したのは、おそらく大正から戦前にかけてではないかと思われます。実際この時代に、労働争議や小作争議、部落解放運動、婦人解放運動(政治参加要求)など人権や権利に関わるほとんどあらゆる運動が勃興し、大きな波紋となりました。

その原因は、苛烈な資本主義による生産様式の変化により、銀行家、相場師、資本家といった新たな時代の強者(=エリート)が誕生するとともに、それ以外の一般貧困層との階級分化が急激に進んだためであると考えられます。

2012年9月3日月曜日

規範回路と観念回路の断層

>「権利」と「義務」を二本柱とする実定法のみを法にするのはおかしいじゃないかと私は思うんです。現代にも貫いている「法実証主義」は間違いなくどこか「病」んでいます。一般大衆としての私たちが共通して感じ、認識しているもっと根源的な「規範」「掟」に回帰すべき時が来ているんじゃないかと思うんです。


本来、規範意識→制度だと思うのですが、現実的にはそうはなってないですね。
むしろ、規範意識と法・制度は、反比例の関係にあるのが事実です。
これは何を表わすのでしょう。

2012年9月2日日曜日

自我ではなく、共認こそ原点である

私たちは実現論において、不全感を揚棄する為の期待・応合の充足回路を基礎として形成された課題共認や役割共認や規範共認あるいは評価共認etcの共認こそが、各個体の意識を統合すると同時に集団を統合していることを明らかにしました。

また、自我が規範や評価etcの共認に対する否定を源泉として始めて成立する共認機能の副産物であり、しかも否定に基づいているが故に共認(充足)を破壊し本源集団を破壊してゆく敵対物(共認の敵対物)であることも明らかにしました。

2012年9月1日土曜日

消費社会と受動社会がつくり出す、矛盾と危険性

実現論の第3部:滅亡の「観念機能、作動せず。」=思考停止を読み、ふと思いついたモノがある。ディズニーランドである。この代物は、実に様々な趣向が凝らされているのだが、訪問者自身のアトラクションへの参加方法は、驚くべき程ワンパターンなのである。訪問者自身は、アトラクションが用意された空間へ入ったら最後、自分の足で歩く事さえしない、また手を使って何か操作する事も無い。ただただ用意された乗り物に乗って、その空間を移動し、アトラクションの発する音響的・視覚的刺激をひたすら感受するだけなのである。要するに、人間が持つ能動的能力は、一切求められていない。争いも冒険も全て目の前で演じられているにすぎない。それを傍観者として目と耳で感じ取る事だけを求められるのだ。