2012年10月18日木曜日

素人の社会活動 ネットと変革組織

図解
http://www.rui.jp/docs/link/okada010726.html

☆実関係上の繋がり・広がり欠乏が、マスコミ主導でいきなり社会変革に向かい、とりあえず有名人に収束したとしても、3~5年後には失望からの中身(本物)期待が昂まり、いずれ本物の変革組織へ収束してゆくし、ネット上でも同様に中身(本物)期待と本物への評価収束によって、本物の変革サイトへ収束してゆくので、実関係とネットに矛盾はない。
☆むしろ、実関係とは位相を異にするマスコミや有名人にしか実現資格がない(=大衆が、実現可能性を感じない)という、マスコミ社会or有名人社会(注:これは、大衆社会の必然である)の構造を、どう突破するかこそ、問題である。(この視点が欠落している。)

2012年10月17日水曜日

素人の社会活動 素人と創造

本当の創造は、素人が担ってきた(言葉を作ったのも、火を使ったのも、弓矢や舟を作ったのも、栽培や飼育を始めたのも、銅や鉄を精錬したのも、また壁画を描いたり、工芸品を作ってきたのも素人である)。真に偉大な思想(統合観念)を創ったのも素人であって、専門の神官や学者が、真に新しい価値を作り出した例は極めて少ない。実現論も又、素人が創ったものである。
※確かに、全くの新しい思念を明確な言葉として創出できた素人は、ごくごく稀にしかいない。しかし、彼は一貫して素人の立場に立っている(からこそ、創出できたのであり、決して自分を天才などとは思っていない。注:偉い身分である学者に成った時点で、彼は素人ではなくなり、真の創造者の資格を失って終う)。

2012年10月16日火曜日

「社会統合のプロ」の存在が、問題なのです

私が問題にしているのは、社会を統合する上で決定的に重要な共認形成の場を占拠して、一方的に支配共認を撒き散らし、人々を染脳教育している学者や文化人やマスコミetc社会統合階級の存在です。

大衆によって構成される社会は、当然、大衆(=素人)によって担われるべきであり、中でも決定的に重要な統合(とりわけ共認形成)の仕事を、「社会統合のプロ」が担っているのは根本的におかしいのではないか、その社会統合という仕事を大衆=素人の手に取り戻そうというのが、私の主張です。

2012年10月15日月曜日

素人の社会活動 ネットはマスコミを超えられるか

B.プロ(≒統合階級)に失望した素人の参加欠乏⇔インターネット(H情報・裏情報・出会い・主張・会議室)
☆期待側(読者)⇔応望側(供給者)という需給構造に近い期応構造が存在する。(応望の典型が、検索サイト)。
●主張したいだけor分かって欲しいだけの期待=欠乏側が、供給(HPを作ったり、投稿したり)しても、敬遠されるだけである。
会議室も場の提供者に徹するしかなく、提供者が主張すると(るいネットの如く)敬遠される。
☆但し、最初の呼び水投稿は不可欠。
●しかし、H情報や裏情報や資料や創作やMMetc情報価値のある中身を供給するサイトは、一定の利用客を持つ。が、リピートは小。

2012年10月14日日曜日

素人の社会活動 マスコミの共認支配

A.村落共同体(深く広範な共認充足)を失った大衆の解脱欠乏⇔テレビ(前身は、新聞・映画)
●マスコミは、バラバラに分解された大衆の解脱共認欠乏を土壌にして成長してきたが、同時にマスコミの成長はますます大衆を解脱個体化させ、更にはこの解脱箱なしには生きてゆけないブロイラーの如き存在にさせた。
●マスコミは、解脱情報を武器にして、大衆を支配観念一色に染脳し続けてきた。それは単にニュース解説etcによってではない。娯楽作品そのものの中に支配観念が様々な形で美化されor正当化されて発信されることによって、大衆は染脳され続けてきた。
☆しかし、今や支配観念と娯楽作品は、新しい価値を生み出す力を、全的に喪失した。
●しかし、マスコミが一方通行(統合階級の染脳機関)という形であれ、バラバラに分解された解脱個体を収束させた全く新しい社会的な共認形成の場(正しくは共認支配の場)を作り上げた事は、注目すべきである。
注:そこでは、素人は与えられた番組や芸能人に対する受動的な評価主体としてしか、存在していない。(もちろん、何がしかの繋がり充足や癒し充足や発散充足を得ているが、それら全ては与えられたものでしかない。)


岡田淳三郎

2012年10月13日土曜日

素人の社会活動 では、情報価値とは何か?

☆では、情報価値とは何か?
●知識は、生産活動(自然闘争)上、不可欠なものであり、情報は社会を対象化する上で、不可欠なものである。
●かつての素晴らしい知恵は、体験を伴わない机上の知識となり、更には電空上(画上)の情報となった。しかも、不要な知識や情報が多すぎる。

2012年10月12日金曜日

社会統合組織の史的総括 国家と教団

新しい社会統合組織を考える為にも、まず過去の社会統合組織について簡単に押さえておこうと思う。

A.国家
社会統合は、剥き出しの武力(強制共認)から、私権の追共認(受容共認)へ、更に法制共認(自主共認)へと移行していった。

2012年10月11日木曜日

世の識者の警鐘が心に響かないのは何故

長尾氏の投稿に対して矢ケ崎、菅原、野田、松尾の諸氏より異論反論が相継ぎましたが、私も違和感が在ります。
>ほとんどの環境専門家は異口同音に、これまでのようなスピードで地球や自然を破壊し続け、有害合成化学物質をまきちらしていくと日本の場合であればあと20年も「もたない」と言っている。<

 つまり、このままであればあと○○年も「もたない」と叫ぶ専門家は子供や家庭や教育の問題、犯罪事件や経済や政治の問題、そして地球環境の問題等あらゆる領域に溢れかえっています、ニュースショウや書店の店頭を賑やかにしてくれています。

2012年9月13日木曜日

素人の社会活動 現実を対象化する思考=事実認識

☆しかし、社会を統合する為には、統合観念が不可欠である。それは、誰もが認める事のできる事実認識の体系でなければならない。とりわけ歴史認識(人類と社会の原基構造の解明)と脱出方向の提示が最も重要な思考課題となる。

2012年9月12日水曜日

権威者としての学者には社会的責任があるはずです。

私は、職業として学者を名乗っている者には、二つの社会的責任があると思います。
1つは、権威者として、世論を誘導できる立場にあることに由来する責任です。
 例えば、バブル経済の頃、日本は世界一の経済大国になり、21世紀は大繁栄の時代を迎えるなどという無責任な論調が、経済界に流されました。
 このとき、イデオローグとなったのは、学者達です。
 本当なら、バブル経済を擁護、黙認した学者達は、現在の不況の責任をとって、彼らは総辞職すべきでしょう。

2012年9月11日火曜日

なぜ学問は退廃するか

以下は森岡正博「現代日本の哲学をつまらなくしている三つの症候群について」からの引用によっています。)

■■書店で出会う「哲学」のつまらなさ
 現代この場所で私たちが直面している問題を、根本にかえって、深く考えるのが、哲学である。ところが、大学や書店で出会う「哲学」は、決してそのようなものではない。現代日本では、哲学は、非常につまらないものへと縮減しているのである。
 哲学者に向かって、あなたの哲学は何ですかと決して質問してはならない、というジョークがあるが、この話が意味するものをここでもう一度考え直してみよう。

 哲学的問題に自分の頭と自分のことばで取り組み、「哲学」する人、これが本来の哲学者である。哲学者は、自分の抱えている問題あるいは現実に直面し対決する。
 これに対して、過去の作品としての「哲学」あるいは哲学(学)者について研究する学者のことを、哲学学者と呼びたい。哲学学者は、文献に直面し対決する。

2012年9月10日月曜日

人権思想についての疑問 その2

人権思想の根拠となるものに自然権があります。簡潔にいうと、「人は自然状態において、他人にゆずり渡すことのできない固有の権利をもっている。それは、人間がただ人間であることにもとづいて当然に身に付けているものである。」という思想です。

かつては人の自然権は、他の絶対的な価値のあるものにもとづいて、価値を与えられていました。例えば、イギリスのマグナ・カルタでは「歴史・慣習」、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言では「神」により与えられるものとされていました。いづれにしても人間を超えた超越存在が想定され、それらの絶対的な価値にもとづいて保障されたものだったのです。人の超越存在が「神」になった思想史的な過程の考察とその問題性については、『実現論』の中で、またこのるいネットに参加されている方の投稿でも指摘がされています。この点についての議論もかなり重要かと思われますが、一旦保留しておきます。

2012年9月9日日曜日

人権思想についての疑問 その1

人権思想についてはいくつかの疑問点があります。

小学生や中学生の頃から、学校では「人権とは、人類に普遍で不可侵なものである」と教えられ、何の疑いもなく信じこまされてきました。

しかし、例えば、手元にある岩波文庫の『人権宣言集』を開いて、フランス人権宣言(人および市民の権利宣言)の章の解説を読んでみると、山本桂一氏はフランス人権宣言においての3つの傾向を挙げています。要約すると以下のようになります。

①形而上学的傾向・・・時間的空間的に限定された諸原理を明言するものではなく、人間社会に共通の普遍的原理を承認するものである。人の本性から派生する自然権として、人は人であるかぎりその帰属を受けるとし、この権利の確認のために前文で「至高の存在」を招請している。

②個人主義的傾向・・・すべて政府および社会は、個人およびその幸福を究極の目的とし、自然権の保全を政治団体の目的としてかかげている。

③市民階級中心の傾向・・・憲法制定議会は、第三身分の代議士が支配するものであったからその採択した宣言が必然的に市民階級の排他的尊重の上に立つことにはふしぎはなく、その具体的発現は、市民の平等の尊重と市民の所有権の保障の2点に見出される。市民階級の生計を確保するとともに、市民の資本家活動を促進して、資本主義経済発展および市民階級興隆の途を開いた。

2012年9月8日土曜日

教育者は要らない

>教える事を職業とする人にはそれなりの熟練した技がありそれは、それ専門にやっていない人には難しい
>冷静に社会を客観視し学問の本質の立場から意見が言える人間(教授)というのはやはり世にとってなくてはならない存在なのである。

問題は、教授に限らず現代の教育者の大半が、教えるに足る何かを持ち得ているのかと言うことでしょう。

>‘数’の中に潜むある‘美’を求めているんだ。それは図形の美しさや数列の美しさ、それらは自然界の美ともいえる。
>理屈はいい。それよりも本当に良い美しいものを創りなさい。

この様なことは本当に正しいと言えるのでしょうか。私は上記のような発言は、「美」という抽象且つ専門的・特権的価値観でもって論理的闘争に蓋をするものだと思います。

2012年9月7日金曜日

近代思想=理念的思考の危険性

理念、理想とは頭の中だけで「こうあるべき」という観念を結晶化させたものです。
 そしてこのようなものが登場したもう一つの理由は、社会を統合する上で何がしかの観念(人々にとって都合よく見える=プラスに見える観念)を必要としたことにあります。

 さて、では我々はどうすれば良いのでしょう。

2012年9月6日木曜日

社会と学校教育(問題と限界)

>それは、先生が社会人で無いからである。
>そのような先生に教わったところで社会の実際の仕組みなどわかることもできない
(現代秀作掲示板http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=3282『社会人でない先生』より)

私も、“教師”という「教える事専門」の職業には疑問があります。
そして、「教わる事専門」の場である“学校”にも、やはり同様に疑問を持っています。
例えば、学校という特殊空間に、社会人教師が入ったとしても、社会(生産現場)に接していない子供達に、その教師に対する尊敬と一体感(仲間意識)は、芽生えるでしょうか?
尊敬も一体感も感じられないその社会人の言葉や行動は、果たしてその場で有効に機能し子供達に吸収されるのでしょうか?
マスコミや評論家は「大人(教師や親etc)自身がしっかりすること」「大人(教師や親etc)は威厳を持つこと」「子供には目上を敬う気持ちを持たせること」など一見もっともらしいことを云いますが、本当にそれは可能なのでしょうか?

2012年9月5日水曜日

個人主義の成立基盤

確かにこのような状態、つまり集団から疎外され万人が敵である状態であれば、個人主義は一定リアリティを持ち得ただろうし、個人を原点に置かざるを得ない事情も理解できる。

しかし問題は,その個人主義が意味を有する現実条件が、現在果していかほど存在するかである。

2012年9月4日火曜日

資本主義と権利

前回の投稿(http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=3233「男女同権とは何の権利を主張しているのか」)に引き続き「権利」について、若干の私の考えを述べます。

日本において、「権利」が喧しく言われ出したのは、おそらく大正から戦前にかけてではないかと思われます。実際この時代に、労働争議や小作争議、部落解放運動、婦人解放運動(政治参加要求)など人権や権利に関わるほとんどあらゆる運動が勃興し、大きな波紋となりました。

その原因は、苛烈な資本主義による生産様式の変化により、銀行家、相場師、資本家といった新たな時代の強者(=エリート)が誕生するとともに、それ以外の一般貧困層との階級分化が急激に進んだためであると考えられます。

2012年9月3日月曜日

規範回路と観念回路の断層

>「権利」と「義務」を二本柱とする実定法のみを法にするのはおかしいじゃないかと私は思うんです。現代にも貫いている「法実証主義」は間違いなくどこか「病」んでいます。一般大衆としての私たちが共通して感じ、認識しているもっと根源的な「規範」「掟」に回帰すべき時が来ているんじゃないかと思うんです。


本来、規範意識→制度だと思うのですが、現実的にはそうはなってないですね。
むしろ、規範意識と法・制度は、反比例の関係にあるのが事実です。
これは何を表わすのでしょう。

2012年9月2日日曜日

自我ではなく、共認こそ原点である

私たちは実現論において、不全感を揚棄する為の期待・応合の充足回路を基礎として形成された課題共認や役割共認や規範共認あるいは評価共認etcの共認こそが、各個体の意識を統合すると同時に集団を統合していることを明らかにしました。

また、自我が規範や評価etcの共認に対する否定を源泉として始めて成立する共認機能の副産物であり、しかも否定に基づいているが故に共認(充足)を破壊し本源集団を破壊してゆく敵対物(共認の敵対物)であることも明らかにしました。

2012年9月1日土曜日

消費社会と受動社会がつくり出す、矛盾と危険性

実現論の第3部:滅亡の「観念機能、作動せず。」=思考停止を読み、ふと思いついたモノがある。ディズニーランドである。この代物は、実に様々な趣向が凝らされているのだが、訪問者自身のアトラクションへの参加方法は、驚くべき程ワンパターンなのである。訪問者自身は、アトラクションが用意された空間へ入ったら最後、自分の足で歩く事さえしない、また手を使って何か操作する事も無い。ただただ用意された乗り物に乗って、その空間を移動し、アトラクションの発する音響的・視覚的刺激をひたすら感受するだけなのである。要するに、人間が持つ能動的能力は、一切求められていない。争いも冒険も全て目の前で演じられているにすぎない。それを傍観者として目と耳で感じ取る事だけを求められるのだ。

2012年8月31日金曜日

個人主義の責任捨象と言い逃れ

近代社会は、自由・個人・権利etcの観念を中核とする近代思想に導かれて発展してきました。しかしその結果が財政破綻・環境破壊・精神破壊であるとすれば、その責任は極めて重大です。ところが、個人主義は、これらの結果に対して、全く何の責任も取っていません。それどころか、「それは個人主義のせいではない」とか、「本来の個人主義は違う」とか、厚顔無恥な言い逃れに終始しています。

2012年8月30日木曜日

個人主義者の詭弁 個人と自我

現在も個人主義者たちは、個人主義と自我(エゴ)の塊の様な自分主義とは違うんだという言い逃れの屁理屈を、繰り返しています。しかし、近代思想の中核を成す個人という観念の、更にその核心を成すのは他ならぬ自我という観念なのです。むしろ、個人という観念は、自我を肯定視し美化する為に作られた観念だと云っても良いでしょう。現に個人主義は、自我を肯定視しており、決して自我を否定していません。

ただ、'70年以降、あまりにも自分主義の弊害が大きくなってきたので、「他人の自由や権利を最大限に尊重するのが、本当の個人主義だ」という論調に変わってきました(そうでないと人々の共認が得られない)。しかし、そうなってもなお自我は肯定視されたままで、否定できないでいます。それも当然で、自我こそが個人主義の核心を成すものであり、もし自我を否定して他人の尊重を第一にすれば、個人主義は相手主義に大転換して終うからです。それほどに、自我(という観念)と個人(という観念)は、不可分なものとして形成されています。

ところで、最近の言い逃れの様な「相手の尊重」という個人主義の言い分ですが、いったい大切なのは自分なのでしょうか?相手なのでしょうか?それとも自分と相手がイコールの比重を持つのでしょうか?もし、自分と相手がイコールの比重を持つとすれば、その主体はもはや自我では在り得ず、(当然、個人という観念も消えて)全く新しい概念が必要になりますが、それは何なのでしょうか?


四方勢至

2012年8月29日水曜日

現代の神官=社会統合階級の欺瞞

何よりも柔軟な思考と大胆な仮説の提起が求められる現在、その最も反動的な妨害者として立ちはだかるのが、他ならぬ個人主義者たちです。

かつて、自由・個人・権利etcの観念を中核とする近代思想は、輝きを放っていました。しかし、その近代思想も、'60年代を通じて急速に色褪せてゆき、貧困がほぼ消滅した'70年をもって生命力を絶たれ、輝きを失って終います。'70年以後(正確には'60年代から始まっていますが)、一気に思想的無関心が蔓延していったことは、周知の事実でしょう。

2012年8月28日火曜日

大転換期の予感と事実の追求

人々は、これまで無数の常識(規範とか観念。現在もっとも支配的な観念は、自由とか個人とか人権だと云って良いでしょう)に則って家庭生活を営み、あるいは経済生活を営んできました。しかしその結果が、先進国における全面的な行き詰まり(世界バブル・財政破綻・環境破壊・精神破壊)であり、崩壊の危機であるとすれば、それらを導いてきた常識群の根幹部が(従って、大部分の常識が)根本的に間違っているからだと考えるしかありません。おそらく人類は今、全文明史を覆すほどの大転換期に入ったのではないでしょうか。

2012年8月27日月曜日

個人主義は利己主義を正当化しただけ

個人史を振り返っても、また最近の社会の流れをみても「個人の尊厳」や「個人が原点」という教育は、結果として「文句言うな、俺の自由だ」「人に迷惑さえかけなければ何をしてもいい」等の、価値観と言うにはあまりにもお粗末なものだけを植えつけたにすぎないのではないかと痛感します。
 
 実際、自由な個人の名のもとで、あらゆる規範や義務はどんどんないがしろにされていくばかり、その崩壊のスピードは目を覆わんばかりです。(そんな状態を作り出した中心は子供や若者達ばかりではなく、戦後教育のもとで育った大人も同様です)。
 それは「本来の個人主義ではない」「個人主義の未成熟」などと識者は盛んに弁明していますが、国家と教育者総力を挙げての教育の結果がこうなわけですから、むしろ現況は個人主義教育の必然と捉えなおすべきでしょう。

 おそらくこの観念は社会や相手などの対象を、もともと欠落させ捨象しているが故に、(人のために今)何をすべきかという視点をすっかり見失わせてしまうのでしょう。
 
 個人主義の価値観は「滅私奉公」に対するアンチテーゼとして登場し、都市生活の拡大とともに浸透していきました。しかしそれは所詮アンチです。
 
 集団や社会を人間が必要とする限り、(更には集団動物であると言う事実に立脚して)活力ある集団や社会を成立せしめる構造や仕組みを曇りのない目で見据える中、認識を組み換えていく、そのような時代的必要性を強く感じます。


北村浩司

2012年8月26日日曜日

ひとそれぞれという問題

「価値観や感じ方、能力はひとそれぞれである」という傾向の意見が結構多いように感じましたので、これについて述べます。


まず、人間は共認機能観念機能を有しているがゆえに、価値観や感じ方がさまざまであり、組替え可能、つまりは「多様」であることは、客観的にそうであるというだけのことで、それは肯定否定といった次元の問題ではないと思います。
(このことは、第二部で遠山千秋さん、第三部で斎藤裕一さんが説明されてるとおりであると思います。)


私が問題がある(賛成しかねる)と思うのは、「ひとそれぞれ」であることをもって、「それでよし」、と結論付けることについてです。

2012年8月25日土曜日

『男女同権思想について』

同じような状況でも、男女差別なんて思わない人もいれば男女差別のせいにする人もいます。その場合、好意的に状況を受け容れている人は何も言わないのに対して、不満視の強い人はとにかく主張するでしょう。

社会的には、何も言わない人の声はまるで存在しないかの様に扱われ、不満視の強い人の主張だけが形になってしまって、あたかもそれがみんなの当然の声であるかのように皆の頭の中に浸透してしまったのだと思います。
だから、「頭で」社会や会社や自分を考える時(就職活動の際に考えることは多いと思いますが)は、私たちのほとんどが、無意識にその思想を前提に考えてしまうのだと思います。

けれど日常の場を振り返ってみると、物言わぬ人の思いも存在するし伝わるし、むしろ肯定的な人の方が影響力もあってみんなを良い方向に導いてくれることを知っています。それに、実際にみんなで何かやろうとする時には、男女同権とか権利とか主張しだしたら何も上手くいかないので、普段そういう意識で物事に取り組むような人は周りにはあまりいないんじゃないでしょうか。


西知子

2012年8月24日金曜日

「小沢を切れ」と合唱する大新聞 この国の大新聞は常にデタラメだった

■「日々担々」資料ブログhttp://asumaken.blog41.fc2.com/blog-entry-5964.htmlより引用です。
◆大マスコミの正体は権力そのもの
◆大新聞を読むなTVを見るな!
・・・に大賛成!!!
~引用開始~
「小沢を切れ」と合唱する大新聞 この国の大新聞は常にデタラメだった
(日刊ゲンダイ2012/6/2)
 昔は戦争大勝利の大嘘を報じ続け最近は小沢一郎の検察デッチ上げ情報を流し今は選挙に負けた自民と宗教政党公明と野田は合体しろと煽っている
 野田首相と小沢元代表の会談物別れを受けて、大マスコミがいよいよ本性をムキ出しにしてきた。「野田は小沢を切れ」「再会談は必要ない」「自公と早く協議を始めろ」の大合唱だ。野田をけしかけ、消費増税法案の成立を急がせたくて仕方ない。
 その後も、「首相、今月15日までに採決」「自民も協議に応じる構え」「岡田副総理、自民の意見入れ、採決」「幹事長会談へ」と書き立てている。
 大増税に「命をかける」と宣言した野田が焦っているのは分かるが、応援団の大マスコミの方がヒステリックになり、勝手に政治日程を決め、大増税採決へのレールを敷いているから異常も異常。政局の主導権を握っているのは完全に大新聞になってしまった。普段は「公平性や客観報道が大事」なんてゴタクを並べるくせに、客観性も中立性もかなぐり捨てている。
 それだけに、「ちょっと待ってくれ」なのだ。朝日や読売新聞は、増税を、さも当然のことのように報じているが、そんなことは誰がいつ決めたのか。国民はオーケーを出したのか。選挙で有権者の過半数の支持をもらったのか。

2012年8月23日木曜日

ロンドン・オリンピック開会式での日本人退場事件の意味するものは何か

新ベンチャー革命http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/30150258.htmlより転載します。
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1.毎年8月上旬に訪れる三つの追憶に共通するもの

 毎年8月のこの時期は、(1)広島・長崎原爆犠牲者命日、(2)日航123便墜落犠牲者命日、そして、(3)日米太平洋戦争犠牲者命日が続きます。

 これまで、筆者にとっての疑問、それは、上記三つの出来事に関連性はないのか、という点でした。

そして、本ブログにて(2)日航機墜落事件に米国戦争屋が関与していた疑惑が濃厚であることを事件後、27年にしてようやく確証を得ました。それもこれも、この事件に疑惑をもって風化させず、丹念にフォローしてきた一部の日本人のおかげです。

 そこで、毎年8月上旬に立て続けに訪れる上記三つの追憶の共通性が浮かび上がってきます、それは米戦争屋の関与です。

 本ブログのメインテーマ、それは米国戦争屋およびそのロボット・悪徳ペンタゴンですが、1985年以来、これまで、(2)日航機墜落事件と米戦争屋の関係の有無が今一、確認できなかったのですが、2012年、ようやく筆者なりに確認できました。

2012年8月22日水曜日

急速に言論統制国家へ向かっている日本

「「秘密保全法」が国会に提出されようとしている!』http://www.trend-review.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=267085で紹介されているように、ここ数年、現代版・治安維持法ともいえる制度が着々と進めれられている所に不気味さを感じずにはいられません。

具体例を整理した記事があったので紹介します。


「急速に言論統制国家へ向かっている日本」(神州の泉http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2012/08/post-7aa1.htmlより)

:::以下 引用:::

国家権力が現代版・治安維持法の設置に躍起になっている証左として、今一度その具体例を列記する。

2012年8月21日火曜日

消費税増税とTPPは実は戦争と同義!~第2次大戦以降支配の手法が領土植民地からステルス経済植民地へ②

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=267650の続きです。
『領土植民地からステルス経済植民地へ』(nueq lab)リンクより転載します。
----------------------------------------------------------------中央銀行は国の経済政策を無効化したり支配することが出来るほどの強大なパワーを持っていますが、世界中の中央銀行は政府から独立権限をすでに獲得したり、立法化したりしつつあります。
日本では、1998年4月の「 新日銀法 」によって、政府からの完全独立と、日銀総裁・副総裁の政府からの解任権剥奪が実現しました。 この法律の立案の立役者が’94~’98年に副総裁だった福井俊彦。 自民党は立法化の後、日銀にハメられたことに気が付き、現在改正法案を審議中で、その核心は解任権の復活にあります。
マレーシアでは、1998年9月に、マハティール首相が腹心のアンワル財務相を解任し、治安維持法違反とホモ疑惑で逮捕しますが、この件を日本のマスゴミは、アンワル寄りの報道に徹し、マハティールの独裁ぶりを印象付けています。 この事件は、1997年7月にタイバーツの通貨危機を皮切りに、アジア通貨危機が発生した際、マハティールがジョージ・ソロス等国際金融筋の謀略と非難してIMFの勧告とは真逆の方針を貫き、タイや韓国、インドネシアなどが実質的にIMF=アメリカに乗っ取られて行く中、唯一、経済を復活させた過程で発生しています。 アンワルはマレーシア中央銀行と結託して中央銀行の政府からの完全独立を画策したのです。 万一、中央銀行が完全独立してしまえばマハティールの経済政策は膝下から崩されてしまいます。 つまり腹心の部下だったアンワルは国際金融筋から買収されたのでしょう。

「 戦争 」とは、軍事的なものに限りません。
軍事的な戦争は謂わば最後の手段であり、現代ではコストが掛かり過ぎるので滅多なことでは使われません。 それに変わって戦争の最前線に踊り出たのが、

・ 金融操作
・ 情報操作

です。

金融操作によってマレーシア以外の、東南アジア各国、とりわけひどいのが韓国で、これらの国々は完全にIMF=国際金融筋 の経済植民地と成り果ててしまいました。
もちろん、日本もひどい状態です。
この日本のひどい状態を創りだした張本人が、

中曽根康弘 ・・・ 前川レポート、バブル経済創出
宮沢喜一  ・・・ 失われた20年の仕込み
橋本龍太郎 ・・・ ビッグバン、新日銀法
小泉純一郎 ・・・ 日米投資イニシアティブ2003
野田佳彦  ・・・ 消費税増税、TPP、秘密保全法、ACTA(ネット言論死滅法)

の5人で、裏で動いたのが「 日銀プリンス 」たち。
日銀総裁は、日銀生え抜きと大蔵省出身者が交代で就任しますが、大蔵省の総裁は単なるお飾りで実権は 日銀生え抜きの副総裁が握っています。 上記5人の背後霊=日銀総裁・副総裁は、

中曽根康弘 ・・・ 前川春雄、三重野康
宮沢喜一  ・・・ 三重野康
橋本龍太郎 ・・・ 福井俊彦
小泉純一郎 ・・・ 速水優、 福井俊彦
野田佳彦  ・・・ 西村清彦、( 勝栄二郎 )

野ブ田の日銀総裁:白川方明は、スキャンダルによる大蔵アレルギーのため民間から招き入れた人物で単なる操り人形です。 副総裁には 西村清彦 と 山口廣秀 の二人がいますが、山口は日銀生え抜き。 西村はリンクの経歴を見ていただければお分かりのように、絵に描いたような世界支配中枢から直接送り込まれてきた人物とお見受けします。
勝栄二郎は、日銀ではなく財務次官ですが、稀代の売国奴:小泉純一郎によって大蔵省は解体され、その権限は縮小されてしまい、遂に大蔵( 財務 )のTOPにアメリカ:世界支配中枢傀儡の勝栄二郎が就任することで完全に乗っ取られてしまっています。 実は、日本の最大の非関税障壁だったのが、大蔵省とヤクザでしたが、どちらも見事にパージされてしまいました。 大蔵省はノーパンシャブシャブに完全にハメられたのです。

上記のように中曽根&前川から始まる日本のステルス経済植民地化に至る事例を時の代表的なエージェント( 売国奴 )で示してみましたが、他国においても事情は似たり寄ったりで、日本のバブル生成&破裂の実験検証を経て90年代に各国で進めらました。

現在、危機の最中にあるユーロ南欧諸国のギリシャ、イタリア、スペイン、そしてヨーロッパ中央銀行のTOPはロスチャイルドのゴールドマン・サックスから送り込まれた人物です。( 詳しくは 「 ドイツ第4帝国とGS帝国の共同謀議 」http://nueq.exblog.jp/18264287/をお読みください。)

金融操作で最近の最大のものは何と云っても、サブプライム ~ リーマン・ショック ~ ドバイ・ショック ~ ユーロ危機 と続く「 金融ブラックホール 」であり、 これから火を吹くLIBOR( ロンドン銀行間取引金利 )不正操作です。

情報操作、これはマスコミ=ジャーナリズムの起源にその性格が求められます。
その起源は、1866年のイギリスの名誉革命にあります。
無血革命となったため「 名誉革命 」と呼ばれますが、国内のカトリックとプロテスタントの争いに乗じて、イギリス王室の乗っ取りを画策した金融資本家と貴族からなるクーデターです。 このクーデターによって迎えられたのが先に書いたオランダのオレンジ公ウィリアムです。
そしてクーデター一味が国王批判と自己宣伝のために始めたものが「 ジャーナリズム 」の起源で、その生まれからしてプロパガンダのツールだったのです。
ですから日本のマスコミが「 マスゴミ 」と呼ばれる大本営発表垂れ流し機関であるのもその生まれの卑しさに起因しているのです。
そして世界のメディアを支配しているのも、表の番頭=ロスチャイルド・ロックフェラーに代表される、或いは、孫正義の親分のルパード・マードックたちで、リビア・シリア報道を見ていても判るように、完全にプロパガンダ化しています。 アルジャジーラでさえ、今回のリビア報道でその正体を表しました。 アルジャジーラは英米資本が手厚く注入されたカタール王の私的報道機関です。

このように、世界各国に於いて、金融と情報を操作することで、とりわけ政府から独立した「 中央銀行 」を支配することで、その国の国民は完全に騙され続けています。 その結果が文化と環境の破壊であり、ステルス経済植民地化がどんどん強化され、これからますます奴隷化への道へと転げ落ちようとしています。

この流れを断ち切るためには、現在の明治簒奪政府と江戸幕府由来の官僚制度を解体するしかありませんが、まだまだ、そうした沸点にはエネルギー不足のようです。

そんな中、10月10日~13日に、IMF&世界銀行の総会が東京で46年ぶりに開催されます。 46年前は、1964年。 10月に始まった東京オリンピックの2~3ヶ月前のことです。 今年の総会は、「 天皇の金塊 」やLIBOR不正操作事件も含め、今後の世界経済の枠組み = つまりより強固なステルス経済植民地化を決定づける重要な位置づけとなりそうです。

世界はすでに軍事ではなく、金融・経済によって植民地化が完成域に達しようとしています。
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猛獣王S

2012年8月20日月曜日

アメリカから読んだリクルート事件の深層③

引き続きマヨの本音http://blog.goo.ne.jp/palinokuni/e/22566faf275865c52c2caea94c93b3f7より転載します。
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   株と秘書名義を使った中曽根流の錬金術

 より意味深長な記述は第四章の「祭りのあと」の」「中曽根の取り分五億円の処置」に書かれている。一四四頁から一四五頁にかけての記述は「十月五日、野村証券から中曽根割り当て分百万株の売却代金が、何の連絡もなく突然、榎本の口座に振り込まれてきた。このやり方は私も首をかしげざるをえなかった(中略)早速、私は中曽根の所に行き、金額の詳しい説明をすると同時に、中曽根に渡せる分(五億円)をどのようにしたらいいのかの指示を仰いだ。『今すぐ必要な金ではないから、君の所でもう少し預っておいてくれないか』この中曽根の返事には私は少々腹が立った。彼が拝むようにして頼んできたので私としても非常に無理を重ねて、やっとここまで漕ぎ着けたというのに、いざ金ができると、このようなそっけない返事である。あまりにも身勝手すぎる話ではないか。『とんでもない。君の金を僕のほうで預かるなどというのはとうていできない』そう言って、私はきっぱりと拒絶した。『そうか。だったら上和田の名で預金しておいてくれないだろうか』上和田というのは中曽根の秘書の名前である」とあり、ここには秘書の名前を使った中曽根流裏金作りと、それまで金にガツガツしていた中曽根が五億円に大喜びしない状況が描かれている。しかし、その翌朝の十月六日には三井銀行銀座支店において、上和田秘書官と日本学術会議事務局長の名義を使った口座が開設され中曽根の政治資金としての五億円は預け入れられるのである。

2012年8月19日日曜日

アメリカから読んだリクルート事件の深層④

引き続きマヨの本音http://blog.goo.ne.jp/palinokuni/e/22566faf275865c52c2caea94c93b3f7より転載します。
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先の引用部分のメタファーを一読しただけで、第二臨調や中曽根首相の私的諮問委員グループに結集した異常精神に支配されたエリートたちがリクルート事件に関係していたと予想できる。それも国鉄、日本航空、電々公社などの国有財産を利権化し、鳴り物入りで大宣伝した民活のカモフラージュの陰で収穫物を仲間のうちで分かち合おうとしたときに、川崎市という権力の周辺で発覚した収賄事件の余波から思わぬ疑獄構造が露呈してしまったのだ。また、そうである以上は第二臨調や首相の私的諮問委員グループの顔ぶれが、最終的に企みの配役として舞台に姿を現すことになる。「中曽根ファミリー」(あけび書房刊)に登場する二一四の諮問機関や審議会の顔ぶれを丹念にクロスチェックすれば、その全貌はたちまち明らかになるはずである。