人権思想の根拠となるものに自然権があります。簡潔にいうと、「人は自然状態において、他人にゆずり渡すことのできない固有の権利をもっている。それは、人間がただ人間であることにもとづいて当然に身に付けているものである。」という思想です。
かつては人の自然権は、他の絶対的な価値のあるものにもとづいて、価値を与えられていました。例えば、イギリスのマグナ・カルタでは「歴史・慣習」、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言では「神」により与えられるものとされていました。いづれにしても人間を超えた超越存在が想定され、それらの絶対的な価値にもとづいて保障されたものだったのです。人の超越存在が「神」になった思想史的な過程の考察とその問題性については、『実現論』の中で、またこのるいネットに参加されている方の投稿でも指摘がされています。この点についての議論もかなり重要かと思われますが、一旦保留しておきます。
ところで、近代以降の人間中心主義、人間至上主義により、それまで人々にとって絶対的なものであった歴史的思惟・神や神話的思想は軽視され、むしろ批判の対象となり、価値は相対的で個人の主観によるとされてきました。
しかし、人に絶対的な価値をおき、人こそが価値を創造できるとするならば、いっさいの価値の基準はなくなるわけで、人(個人)が至高の存在だとはいえなくなるのではないでしょうか。
近代以降に確立された人権思想の中味を突き詰めれば「信じられるものは自分だけである」といいながら、「すべての人間は無条件ですばらしい」と平気で言い切る矛盾をきたしていることになります。このようなことを本気で言う人がいれば、その人はほとんど精神分裂の状態ではないでしょうか。または、このおかしさを解っていて、なおかつ平気でいう人がいれば、その人は人を欺くための知的な犯罪を犯しているといえます。
人権が発明された当初の目的である国家(公権力)から個人を守ることとして機能している場合もあります。しかし、現在においては、上記の知的な犯罪のもとに「人権」が政治的なスローガンとなっているケースが多々あります。例えば、人権大国のアメリカから未だに人種差別がなくならないのはなぜでしょうか。人権抑圧に対抗するためとして中国に外圧をかけていたアメリカが、現在、人権問題を保留にしているのはなぜでしょうか。日本でも「人権」を持ち出せば、もちだした方にすべて正義があるようになってしまっています。本当に正しいのかどうか、その先の議論ができない状況になってしまっています。
槇原賢二
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