2012年9月4日火曜日

資本主義と権利

前回の投稿(http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=3233「男女同権とは何の権利を主張しているのか」)に引き続き「権利」について、若干の私の考えを述べます。

日本において、「権利」が喧しく言われ出したのは、おそらく大正から戦前にかけてではないかと思われます。実際この時代に、労働争議や小作争議、部落解放運動、婦人解放運動(政治参加要求)など人権や権利に関わるほとんどあらゆる運動が勃興し、大きな波紋となりました。

その原因は、苛烈な資本主義による生産様式の変化により、銀行家、相場師、資本家といった新たな時代の強者(=エリート)が誕生するとともに、それ以外の一般貧困層との階級分化が急激に進んだためであると考えられます。

こうしてできた強者―弱者の構図があまりにも極端であると、社会統合上問題が多く、深刻な社会不安を招きかねないことから考え出されたのが、「権利」を大義名分とした社会福祉ではなかったのかと考えています。そこで私権弱者を再分配により救済することに一定の意義があったことはもちろん認めるものの、より本質的には「権利」という概念と社会福祉を与えることは、結果的に資本主義の拡大、浸透、存続に寄与していったのではないかと考えています。

「権利」を与えるといっても、「権利」自体には何も実体はなく社会的な約束事に過ぎません。実体があるのは福祉という具体的な便益の方です。
人権の尊重とか、何々の自由といったところでそれはお題目に過ぎず、現実には様々な制約を受けるわけです。あえて言えばそうした「権利」を実体化できるのは強者だけで、弱者は相変わらず奴隷的な労働に甘んじなければならなかったのではないでしょうか。
厳然と存在する私権序列の前では弱者は無力な存在であるわけですが、それでもこの「権利」という概念に何らかの希望が存在していたであろうことは十分考えられます。

このように考えると、「権利」という概念は、宗教的なものと親近性があるように思えます。
以下は、西谷文宏さんのhttp://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=2962「宗教・近代哲学に関する分析」からの引用です。

私権社会は、強い自我を序列規範によって制御している。しかし「序列転覆」を謀れる可能性がある者などごく一部で、社会構成員の大半は、「自我」を抱えたままその「序列規範」に抗えないでいる。 「序列規範に抗えない自我」はその序列規範を否定しながらも、一方で自己肯定・正当化の為の救いを求める。これが「宗教」の発生過程であると私は考える。<
 
>この「自我に都合のよい」宗教の構造は、「序列規範」の勝者である統合階級にとっても社会統合上「都合がよい」為、権力と結びつく。 <

本稿で話題にした大正から戦前にかけての時代は、また日本において都市的な新宗教が成立する時期とも完全に重なるのですが、これらが偶然の一致であるとは思えません。


翻って戦後から現在までの流れを概観すると、経済成長を達成したことにより、明瞭な強者―弱者という構図は崩れ、多くの大衆層が「権利」を楯に国家にたかるという構図に移ってきたように感じられます。大幅な経済成長を続けているうちはまだそれでも再分配が成立していたとも言えますが、成長が鈍化した途端に大衆層の要求に対して国家が持ちこたえることができず、財政赤字の山を築いていったというのがおおまかな流れでしょう。

また個人的には、「権利」主張の内容も空疎になってきているように感じています。「権利」を巡る議論が例外なく不毛で生産性がなく、さらに多くの場合、利害対立の様相を呈しているように思われるのです。おそらく、「権利」という概念が社会的な約束事(大義名分)であることを忘れて、そうではなく権利は絶対に「ある」とか「ない」とかいう全く根拠のない、したがって論証不能な「べき」論に堕していることがそうさせているのでしょう。

男女同権についても、女性も社会参加すべきであるとかという部分では納得できる点があるものの、自己実現とかいうもののために政治的に国家の金を当てにしている構造や、「権利」云々をいいながら結局は具体的な便益を求めているという構造が見え隠れする時点で私権的なフレームに絡め取られてしまっているように感じます。


岩井裕介

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