2012年9月8日土曜日

教育者は要らない

>教える事を職業とする人にはそれなりの熟練した技がありそれは、それ専門にやっていない人には難しい
>冷静に社会を客観視し学問の本質の立場から意見が言える人間(教授)というのはやはり世にとってなくてはならない存在なのである。

問題は、教授に限らず現代の教育者の大半が、教えるに足る何かを持ち得ているのかと言うことでしょう。

>‘数’の中に潜むある‘美’を求めているんだ。それは図形の美しさや数列の美しさ、それらは自然界の美ともいえる。
>理屈はいい。それよりも本当に良い美しいものを創りなさい。

この様なことは本当に正しいと言えるのでしょうか。私は上記のような発言は、「美」という抽象且つ専門的・特権的価値観でもって論理的闘争に蓋をするものだと思います。


例えば建築というものは、徹底的に観念的な作業により成立するものです。もちろん単に美しいだけのものが喜ばれるものでもないでしょうし、機能だけというものでもありません。当然の事ながら、その様な様々な視点を総合し、自然に対する認識や社会に対する洞察を全て駆使して実現する極めて社会的な行為なのであり、その様なことは感覚的な検証も含めてより観念的になされねばならないものです。理屈が要らない等とは、仮に屁理屈に対する戒めであっても言うべき事ではない(と言うより、間違っている)のだと思います。

問題は、この様なことを発言したとしても何ら審判を受けることなく、大いなる可能性を有する若者に、自らの思いこみだけを刹那的に吹き込む教育者が多く存在していることであり、その様なことはもはや犯罪と言わざるを得ないのでしょう。社会と接点がないと言うことは、そういうことであり、彼らが何の審判も受けない特権階級であることを意味しているのだと思います。

そもそも教えると言うことの役割を彼らはどのようにして得たのでしょうか。高等学校以下は教員試験により、大学においては研究成果によりその様な資格が与えられるのでしょうけれど、その様な過程は評価者と被評価者が結果としてほぼ同じ職種に収まると言う「身内の評価」に過ぎないものであり、教えられる側や、将来的に彼らを様々な形で受容れる一般市民の評価が全く介在していないことをどのように考えればよいのでしょうか。

現代社会の固定観念や、個人主義などは当掲示板でもその問題が多いに指摘されているものでありますが、そのようことを広く国民に吹き込んできたのは、彼ら専門の教育者である事は、疑いようのない事実でありながら、彼ら自身がその事を反省しているということなどは未だかつて聞いたことすらありませんし、彼らが主張する学門や近代思想の正統性などはそのこと自身が大いに怪しいと言うことになるのでしょう。

以上のように、教育者が不要である理由を挙げればきりがないのですが、最も端的に言えば彼らこそが国民を駄目にした犯人であるということなのです。


斎藤裕一

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